コタロー’s blog

コタローです。大卒、社会人3年目。日本在住。

自己認識を改める

 

最近、ストレスを抱えて生きているように感じる。

 

将来のこと、自分が抱えている仕事が終わるのか、自分の仕事が終わらなかったら、周りの人からの評価が変わってしまうのではないか。

 

でも、自分でもわかってる。

漠然と悩むことに全く意味はない。

人からの評価を恐れる必要はない。

 

何かを目指して頑張るのも重要だけど、失敗したり、うまく行かない自分でも認めてあげることが大切。

歩みが遅くても、

効率的にできればそりゃいいかもしれないけど、そんなに焦っても、仕方ないよ。

 

いいじゃない、失敗したって。

いいじゃない、またやり直せば

 

落ち込んだっていいじゃない。

 

失敗さえも笑い話にすれば

 

いいじゃない、自分の望みをいろんな人に話してみれば

 

笑われたっていいじゃん

 

応援してくれる人を大切にすれば

 

 

部屋を片付けられる人になるには

①部屋を片付けられるようになりたい

私は部屋の片付けが苦手である。

ひとり暮らしを初めてもう7年目にもなるが、基本的に部屋がずっと汚い。片付けができない悪い習慣が体に染みついてしまっている。

部屋が汚くなって友達の力を借りて大掃除をしたこともあったが、綺麗な状態を1ヶ月程度の短い期間でも維持できた記憶がない。

これまでは、「自分一人で暮らしている分には誰にも迷惑をかけないし、この部屋が汚くてもいいじゃないか」と思ってきた。しかし、よくよく考えてみて、この考え方は、「部屋が汚い状態、掃除をしない、掃除ができない自分を正当化してきただけではないか」と思うようになり、自分の考えを改めるようになった。振り返ってみれば、他人に迷惑をかけていないにしても、部屋が汚くて鍵がすぐ見つからなくて困ったり、間違えて同じ本を2冊買ったり、家が汚くて友達を呼べなかったり、その他大小様々な生活上の不都合があり、自分自身困ったことがたくさんあった。つまり、他人に迷惑をかけていないにしても、自分自身が困っていたことに目をつぶっていたのだ。

また、「自分一人で暮らしている分には誰にも迷惑をかけないし、部屋が汚くてもいいじゃないか」という考えについて、昔は本当にそう思っていた。しかし、今はこの考え方が、非常に恥ずかしく、幼稚なものの考え方だなと思うようになった。

昔の考え方は、「誰かに指摘されたり、見られたりする状況になければ、綺麗な部屋というあるべき状態を追求するために掃除を毎日するといった行動を行わなくてもよい」と自己正当化しているようなものであるからだ。

部屋は綺麗な方がいいのだから(これは価値判断なので、万人に受け入れられないかもしれないが、多くの人は部屋は汚いより綺麗な方がよいという価値判断をするだろう)

部屋が綺麗な人は、部屋が綺麗なだけの理由がある。それは、例えば掃除をしていたり、ものを置く場所を決めていたり、不要なものを買わなかったりといったことがあると思う。

つまり、部屋が綺麗=部屋を綺麗にするための掃除や意思決定ができる人間である→

上記のことができるよう自分を律することができる→他のことについても同様に自分を律して行動ができる。また、そのような習慣がある人だなと思った

私は上記のことと真逆であり、要はだらしない人間だなと思った。

 

こんなことは人によっては子供のころから気づいている人もいるはずで、気づくのが圧倒的に遅いけど、気づけただけ成長したなと自分自身思う。

 

今後結婚して他人と暮らしていくとなると、いい加減だらしない人間を卒業しないといけないと本気で思うようになった(冷静に考えて、自分が掃除できない人と付き合いたくないと思うので、それは逆もしかりである)ので、部屋を片付けられるようになりたいと本気で思った。

しかし、最初にいったとおり、私の場合6年と4ヶ月もの間、だらけきって部屋を片付けられないという生活をしてきたのでかなり重傷でありちょっと片付けをしたくらいではまたすぐに汚い部屋になってしまう。したがって、どうすれば綺麗な部屋を維持できるのか行動指針や自分なりのルールを定めて実験してみようと思う。

②部屋の現状

私の今の部屋の現状はこんな感じだ。

洗濯物を干した後の洋服は床に置いてある。市役所の広報誌や食事のデリバリーのチラシ、電気・ガスの公共料金の通知やその契約書面、クレジットカードの約款書類、銀行のiDeco推奨DM、インターネット回線の契約書類がイスの上においてある。旅行先でひいた大吉のおみくじは机の上、カレーのルーが入っていたとろけるカレーの箱もなぜか床にある。本棚には、観光地に行った際のパンフレットや本が雑然と置いてある。

部屋が汚いとデメリットが多い。一番大きなデメリットは、部屋が汚いと、自分がだらしない人間であると思ってしまうことである。これは精神衛生上よくない。

だらしない人間より、きちんとした人間の方がいいよね。

2つ目のデメリットは、必要なものを見つけにくいということである。

3つ目のデメリットは、健康に悪いことである。当たり前だが、ほこりまみれの家よりは、清潔に掃除されている方が体によい。

③どうやって部屋を片付けていくか

何事も願うばかりでは状態は変わらないので、具体的にどうやって部屋を片付けなければならないのかを考えなければならない。

 

(ⅰ)ゴミが出たら捨てる

(ⅱ)後回しにしない

(ⅲ)優先順位をつける

(ⅳ)やらなければいけないことを真っ先にやる(ⅲとほぼ同様)

(ⅴ)部屋の状況を確認する

(ⅵ)自分が保有する、服や本を把握する

(ⅶ)書類は残さない

(ⅷ)ものは床に置かない

 

以上を実践していきたい

 

 

 

 

仕事について(仕事は楽しいかね?)

 

たった今、仕事ついて思ったこと。

 

仕事が楽しい、というのはマヤカシである。

 

正確に言えば、楽しい時もあるし、楽しくない時もある。だから、一概には楽しいか楽しくないかは言えないというのが私の考え①である。

なお、ここでの、仕事を楽しく感じるか、楽しくないと感じるかについては完全に個人差がある。まさにIt's up to you.である。

日本では、多くの人が学生を終えてから初めて仕事に就く。就業型インターンもあるが、ここでは割愛しよう。

さすがに、毎日仕事が嫌だ〜と言っている人も、働き始めて一回も楽しい場面がなかったということはないだろう。

ただ、仕事を楽しいと思う頻度は確実に個人差があるはずである。

 

仕事を楽しいと思うか否かは個人による。

 

さて、以前アパホテルに泊まったときのお話をする。

部屋に本が置いてあった。

女社長の顔を前面に出した広告で有名なアパホテルだが、そのアパホテルの女社長の自伝本が置いてあったのだ。

私は手にとって読んでみた。

 

その女性社長の名前は元谷芙美子さんだ。

地元石川の信金でお勤めされ、その勤め先で出会って結婚した旦那さんとホテル事業を行い、現在の規模まで拡大されている方である。

 

自伝本なのでかなり主観的な話ではあったが、以下の点が印象に残った。

 

・仕事は、楽しいと思ってやってきた。そもそも人と話すのが好きなので、商談が好き。

・一見つまらないことも自分で工夫して楽しんでみる。

 

商談が好きというのは性格的なものもあると思うが、つまらないと思うことも楽しむというのは重要だろう。

 

これは他の本でもよく言われたりする。

いわゆる心掛け次第ってやつ?笑

(余談だが、女社長の旦那さんが書いた本も置いてあり、アパホテルはけっこう経営者の意向を前面に出すホテルなのだなと感じた。特にホテル自体に不便はなく、むしろ泊まったホテルの受付の対応もよかったし、機会があればまた泊まりたいと思った。なお、旦那さんの本は日本の安全保障や外交に関連する内容であり、やや右寄りである。)

 

②の考えは、

不幸なサラリーマンは、働くのがつまらないということ。

 

さっきの話を借りれば、不幸なサラリーマンでも、心掛け次第でめちゃくちゃ仕事を楽しむということはできると思う。

 

ただ、ここで言う不幸なサラリーマンとは、そもそも自分の中で、仕事の目的が見えていない人である。

 

はっきし言って技術系と事務系はやってること違いすぎるし、技術者が技術を使う仕事についたら、好きでやってる可能性が高いんだから、そりゃ仕事は楽しいと思う。事務系でも、その事務をやりたい!って思ってるなら楽しいはず。

 

ところで、僕は、中学生くらいに思ったことをハッと思い出した。

中学生の僕は、仕事とかしなくてもよくね?と思っていた。

というか、仕事について真剣に考えたことがなかった。今更後悔しても仕方ないので、後悔はしないが、あともうちょっと考えることも後から考えればできたんじゃね?と思ってしまう…

(余談:これは前本で読んだ、脳の機能やな。あとから見れば過去の結果は明らかだから、過去に戻って合理的な判断できるのに〜って思っちゃうやつ)

今思えば、金のみを見て、海保とか考えてた。

海上で働く人は、危険を伴うので、乗組員手当がつき、給与が割と良いからである。

 

なぜ自分が中学生の頃から金を基準に考えてたのかはまたの機会に考察したい。

 

ふと思い出した、仕事しなくていいんじゃね?という考えは、僕はいまだに間違ってないと思う。

 

ただ、条件はつく。やはり他人に迷惑をかけたり、親に迷惑をかけたりできない。つまり、自分で生活はしないとならないってこと。

 

正直働いて思ったのは、組織は仕事を進める上でめっちゃ合理的な仕組みだし、

 

やっぱ人間一人でできることなんて限られてるし、協力した方が仕事捗るし生産性あがる。

これは間違いないなと。

 

なんだけど、組織に入ると、それこそこれまでの日本の終身雇用制度のように、組織の要請に応えれば買うのも困らないし、安定した生活も保証するっていうメリットがある反面、

組織の要請のための仕事をしなければならなくなる。

 

これはある種当たり前の話である。

 

法人は、特に民間企業は利益を出さなきゃそもそも事業を継続できないし、

そのためには、収益を生む事業を伸ばしたいんだけど、

例えば、メーカーなら収益を生み出す新たな技術開発や研究をしないといけない。これは事業の本丸だからいいけど、

バックオフィスが研究開発の費用対効果を定量的にエクセルにデータ打ち込んで分かりやすくデータまためるなんて仕事は地味だわな。

 

まあ要は、華やかな部分にしか目がいかないと、仕事嫌になっちゃうんかもね。

 

仕事の多くは地味である。だけど、重要なんだよね。

当たり前のことを当たり前にこなすことがまずは重要だし、

その上にイノベーションがあるんかなと思ったわw

 

組織の目的は、より良い事業を行うこと(その延長で利益うむ)だから、フロントオフィスの方が目立つけど、バックオフィスも自分の仕事の意味を大きく捉えることで楽しめるぜ!

 

 

なお、そんなんつまらねー!ってやつは独立、企業するしかない。

 

結局は一人じゃ回らないから、人と協力する必要が出てきて、組織を作る必要が出てくるけどな。

 

そしたら、自分がボスだとしても、秘書には、自分の日程を管理させる必要があるかもしれないし、これは秘書にとってはつまらないただの事務仕事になっちゃうかもしれんよな?

 

話を戻して、

 

サラリーマン、特に事務系は決定権者にならない限りは基本降ってきた組織の要請をこなすしかないからそこに面白みを見出したり、

より大きなビジョンをもって、組織をこういう方向に持っていきたいとかいう信念がある人はそれに向かって頑張れるはず。

そして多分官僚の醍醐味はそこにある(あるいは、そこにあると思い込んでる奴らの集合体)

 

あとは、その組織でしかできないことや触れることのできない情報、得ることの出来ない社会的な立場や、実際の仕事や、その仕事上の関係でしかなかなか経験できないことに価値を見出す人は多いと思う。

 

 

だから、多くの場合、特にホワイトカラーの場合、ポジショントークができるから仕事をしている人もいると思う。

そもそもその職業がある程度年収もらえて社会的地位があるとかね。

 

 

 

○仕事が楽しいという人の楽しみ方を以下の通り考えてみた。

 

ⅰ) KDDIの社長のように、技術者がその技術を持って売り上げを上げているような場合。これは自分の興味や専門の延長線上で仕事をしているから面白いと思う。

 

ⅱ) 企業家。特にやりたいことが決まっているパターンの企業家。そうでなくても、なんか試行錯誤して自分のやりたいことやってみたら人。

ある程度食うのに困らないくらいの資金がないと気持ちが辛いかもだけど。

 

やっぱ、いわゆる遊び、山登りや語学、旅行に時間かけてーなと思いはじめてて、そうなると時間で金をもらうより、自分で金を稼いで時間を生み出して好きなことした方がいいんじゃね?と最近思い出したという話でした。

 

うげー書くのに40分くらいかかった。

Give & Take(ギブアンドテイク)

彼女と別れて早半年が経った。

正直未だに思い出しては辛い感情になる。

それは、相手のために力になれなかった自分の無力感から来る。そもそも相手の悩みや辛さを感じとってあげられなかった自分の感度の低さに対しても、なぜもっと目の前の現実をしっかり見なかったのだろうか(何か悩んでいることはないか?とコミュニケーションをとってあげることが出来なかったのか、そもそも気づかなかったのか、気づけていたとしてなぜそう行動する勇気がなかったのか)という思いに駆られる。

そして、その自分の至らなさを相手が感じとり、私は見切りをつけられてしまったという、自分の存在を真っ向から否定する事実に直面し、本当に自分という存在の無力さに、気分が落ち込むことが未だにある。

 

こうして言語化すると、全て自分に対して意識が向いていることに気づく。この様な姿勢が、本来は相手に素直に向かえばいいのかもしれないなと思う。

 

話を戻して、

本当は相手のために少しでも力になりたいと思っても、もはや私から得るものは何もないと思っている相手に対し、何かを与えるチャンスすらないことがたまらなく悲しいと感じる。

 

この悔しさは、もはや見切りをつけられてしまった彼女との関係で解消するチャンスがない。その意味では一生、彼女との関係で感じたあの時の無力感を抱えていくことになるが、今後似たような局面に立ち会ったとき、同じような失敗をしないように、よくよく振り返る必要があると思う。

 

そして、その原因は他でもない自分自身にあることから真摯に自分自身の至らなさを分解して、それを克服していかなければまた同じ失敗を繰り返してしまうだろう。

 

後悔先に立たず、ああしておけばよかったこうしておけばよかったというのは、振り返ってから言うことは非常に簡単だが、そんなことを言っていても過去は変えられない。

むしろ、この経験を踏まえて今後の人生で応用できそうな考え方をまとめておき、実際にその考えの通り行動し、未来を納得できるものに変えていくしかない。

 

そこで、Give & Takeという観点から考えたい。

 

Give & Take ギブアンドテイク。与えることと受け取ることという意味である。

 

よく人間関係は、Give & Takeだと言われる。

 

何かを人から与えてもらった時には、後にちゃんとお返ししましょう、そうすれば相手との関係がより良好なものになります、という考え方であると理解している。これはテクニック論としてではない。実際人間は返報制の原則があると言われており、何かしてもらったら何かしてあげたくなるものだろう。

 

与えるものや受け取るものは何も物質に限らない。相手への配慮、相手を喜ばせるような言葉、千差万別だろう。

 

世の中には、側から見ると、どうも人に対して「何かを与える」という意識が薄いように見える人がいる。

かくいう私も、積極的に人にお節介するようなタイプではなかったので、人に何かを与えるという意識が薄いように見える人間だったかもしれない。ある意味主体性の欠けている人間である。

しかし、最近では意識して周りの状況を見て、人のニーズを把握し、必要なものは与えようと努めている。意識して与えていることを相手にわかってもらえるようにも努めている。なぜなら、相手に伝わらなければ自己満足の世界だからである。

周りを見て、少しだけ先を見据えることは、社会人に当然求められるスキルかもしれない。

 

さて、Giveにもレベルがある。

①幼少期から周囲の人と接する際の意識付けがなされており、当然のようにGiveをできる人。彼女はこのタイプだった。

 

②習慣づいてないため、Giveの初動が遅い人。しかし、気づけばGiveを行う。

 

③Giveをしない人。これはかつての私であり、意識して人のニーズを汲み取ることで②に移行しようとしている。

 

③の人がなぜ存在できるのか。それは、周囲のフォローがあるからである。幼少期であれば親や周囲の大人、もう少し大きくなれば周りを見ることのできる友人などのフォローである。

 

しかし、私は③の人はいつも与えてもらってばかりでダメであると言いたいのではない。かつての自分を自己正当化しているつもりではないが、

③の人は、その人に対して周りの人が与えようと思うインセンティブがあるのである。

 

それは、Giveする周りの人が、自然と③の人から、何かを受け取っているということなのである。

 

これは、新たな視点を生む。

通常、人間関係はGive & Takeであると仮定すると、帳尻が合っていない場合、その人間関係は破綻するはずである。

 

しかし、側から見るとどうも片方だけがGive過多で、もう片方がTake過多であるのに、両者の関係が良好である場合がある。

 

これは、Giveする周りの人が、自然と③の人から、何かを受け取っているということなのだと思うのだ。

 

それは③の人にとって、幸せでもあり不幸でもある。

自分がそんなに考えなくとも周りとの人間関係は上手くいく。それは、③の人が意識せずとも何かを相手に与えているからである。

しかし、相手が求めているものを与えなければならない状況になった時、普段からGiveを意識している人とはGiveの程度・質に雲泥の差がある。なぜなら、相手が求めているものを知るためにコミュニケーションを取らなければならないし、それを適切に与えなければならないからである。相手が勝手に、自然と受け取ってくれる自分の良さとは別に、相手が自分に対して求めているものを、積極的に与えなければならない。

 

残念ながら、私は③の人だった。

作為(自分から何かをする)のGiveではなく、不作為(自分から何かをするわけではない=ここでは、相手が自然と受け取ってくれるという意味とする)のGiveをたまたまできていたおかげで(ある意味自分の強みではあるが)、本当に何かをして欲しいとき、作為を発してるときに何もできなかった。正直、たぶんなんとなるという甘い考えがあった。

 

痒いところに手が届く、ちょっと面倒だなということを先回りして行う。

必要なことは、今の状況で周りが何を必要としていそうなのかをしっかりと見極め、その要素を分解し、その必要としていることを先回りして行うことだと思う。

 

もちろん、全てが周りの人から感謝されることもないだろうし、気づかない人もいるだろう。

そのことに一喜一憂している暇はない。

 

1年後、5年後、もっと後の人生においても本当に大切な人が、大切なときに必要としているものをしっかりとGive、与えられるような人間になっていたい。

そのために日々、周囲を見て、何を欲しているのかを考え、困っている人に手を差し伸べられるよう行動する。

 

 

5/11(月)23:30